仏教をもう一歩みなさまのところへ
京都 西の地 洛西 太秦にある西光寺の住職の木村と申します。
本日は、西光寺のホームページをご覧頂きまして、ありがとうございます。
西光寺は、京都にある知恩院の末寺です。嘉禄3年 法然上人のご遺骸が鴨川へ流されようとした時に、迫害する勢力からご遺骸をお隠しした寺院です。当時 大谷(現知恩院)に埋葬されていたご遺骸を護る為に、奥嵯峨二尊院へお移しし、お隠ししました。
しかし、道中付添の弟子が多く、6日で気がつかれてしまったので、今度は数名のお弟子(絵伝では9名)だけで、当時 広隆寺の境内で庵を結んで専修念仏の教えに帰依されておられた来迎房円空上人の住房へ移し、円空上人が責任を以ってお護りしました。
法然上人立像
その縁により嘉禄の法難の後に浄土宗の寺院となり、8ケ月間お護り通した来迎房円空上人をご供養し、今日に至っています。※京都府寺院明細帳によれば、文化9年(1812年)7月に知恩院の命によって、再建されたと記録が残っています。前年の文化8年は、法然上人の600年大遠忌に当たる年でした。
「文化九年七月 従知恩院宮蒙内命再建之」
知恩院所蔵の「勅修御伝」によれば、ご遺骸をお移しした所は広隆寺ということですが、京都市埋蔵文化財研究所地図広隆寺旧境内により、当時の広隆寺の境内は約6万坪 (現在は約1万坪 )あり、現 西光寺の敷地も南西角地付近に位置していたことが考察できます。
また西光寺が所蔵する、御廟の円光大師 (法然上人の大師号) の石碑は、旧広隆寺敷地内の霊蹟地という理由で広隆寺山門前に設置されていたものが、移転されたものです。
西光寺で約8ケ月間、追手から護られた後、今度は西光寺から西山粟生野にお移しして、その地で荼毘(火葬)に伏されました。その後 その荼毘地に建立されたのが、長岡京の西山浄土宗本山光明寺です。
今の世の中、物質的には豊かになったかもしれませんが、心はというと同じように豊かにはなっていないのではないでしょうか。今さえ良かったら良い、自分さえ良かったらそれで良い、そのような考えから大切なものを見失っている世の中ではないでしょうか。
まだまだ、皆様に何かをお伝えできるほどの身ではありませんが、法然上人の墨染のみ心を忘れることなく、今目の前におられる皆様に、しっかりと目を向け、「仏教を もう一歩 みなさまのところへ」を僧侶の使命として、出来る限り努力して行きたいと考えています。どうぞ、よろしくお願いします。